2022年11月27日(日) 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている からです」ローマ7:15
「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている からです」ローマ7:15
律法とは、神の戒めだ。「偶像を造るな、拝むな」「安息日を覚え て聖とせよ」「父母を敬え・殺すな・盗むな・姦淫するな」等々。 「神を愛し、隣人を愛せよ」「敵を愛せよ」「復讐するな」様々あ る。律法はすべて正しい。だが肉の私たちには、正しく良いもので ある事はわかるのだが、それを行なう力が無い。 パウロが言う通りに「貪るな」と言われると、罪の性質がむくむく と出て、逆に貪りたくなるのだ。それなら律法により貪りが引き起 こされる事になる。人の内に罪があるからだ。ある人が、玄関の植 木鉢が余りに盗まれるので「植木鉢をとるな」と張り紙をした。す ると余計に次々と盗まれ、とうとう張り紙をはずした。 「盗るな」と言われると、盗りたくなるのが罪の性質だ。「勉強し ろ」「手伝え」と言われると反発する。肉には逆らう性質がある。 救われた当初は、喜びで一杯だが、その内、信仰生活が辛くなる。 窮屈で苦しくなるのだ。今まで感じなかった「罪」がわかって来 る。デボーションと言われるが、祈れないし、聖書もそんなに読め ない。段々と重荷になる。 善をしたいと思うが、実行する力が無い。頑張っても出来ないと気 づいて行く。壁にぶち当たり、自分の惨めさ、無力を味わう。しか しそここそが恵みの場だ。その時にこそ、真に主の恵みと力、救い を経験する。無力を認め、ギブアップし、主にゆだねて行く時に、 御霊によって歩むという事を知って行く。御霊が働かれ、一つ一つ 成し遂げられて行く事を経験する。 ------------ やればできると頑張っても、今日は出来ても明日は出来ない。陰険 な罪を主の十字架で救われた恵みに感謝だ。主に思いを祈り、主の 喜ばれる方を道を歩みたい。御霊の助けを祈ろう。