2024年05月28日(火) 「イエスは彼が伏せっているのを見・・言われた 『よくなりたいか。』」ヨハネ5:6
「イエスは彼が伏せっているのを見・・言われた 『よくなりたいか。』」ヨハネ5:6
アルコール依存症の人は、どこに行っても、飲酒の誘惑があるか ら、止められないと言い、ギャンブル依存症の人も、ギャンブルが ある事が悪いと言う。つまり環境が悪いのだと。しかし全く同じ環 境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもならない 人々が大勢いる。これは環境のせいでは無いという事だ。何が問題 なのだろう。 私たちも形は違うが、同様の事があるだろうか。止められない習慣 の底にあるものは、実際は止めたくない。止められないのではな く、止めたくない。特に思い煩いの強い、心配症の人々もいるが、 思い煩っていたい。不思議だが、思い煩いがないと不安で、思い煩 いを拾っては安心する。思い煩い依存だろうか。 思い煩いが好きなわけないと思うが、心の底を正直にみると、思い 煩いを次々取ってくる。主はいつでも「よくなりたいか」と問うて 下さる。「〜できるか」と問われない。「〜たいか」だ。本当に良 くなりたいか、どうだろう。そこが問題だ。建前でなく、本音はど うだろう。良くなりたいのだろうか。楽な、肉の好むままにしてい たいのだろうか。 環境のせいや、人のせいにせず、自らの罪を認め、正直に自分の肉 を認めて行く時、主は、いやしを与えて下さる。しばしば、罪を憎 んでおらず、罪を楽しんで、愛している。罪には快楽があるから心 地良い。しかし罪を憎まなくては、主を愛することはできない。 そして罪をもてあそんでいると、いつしか罪に飲み込まれてしま う。本音の部分を御霊に照らして頂いて、そのまま主に向き合お う。主はいつでも助け、導いて下さる。 ------------ 本当は、立ち上がらず弱さの中でゴロゴロとしていたいのではない か。その弱さも主はご存じだ。悔い改め、良くなりたいと主のご愛 を信じて委ねていこう。