2024年12月28日(土) 「・・祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つ うちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべ てヨルダン川を渡り終わった」ヨシュア3:17
「・・祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つ うちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべ てヨルダン川を渡り終わった」ヨシュア3:17
民の指導者モーセの死後、継いだヨシュアが民を率い、ヨルダン 川を渡る事になる。橋も船も無い中、春先の雪解けで水量が最 も増える時期で、とうとうと流れていた。主の指示通り、祭司たち は契約の箱をかつぎ、自分の背丈よりも深いヨルダン川に、一 歩足を踏み入れた。目に見える保証は無く、ただ、ヨシュアから の神の言葉だけだった。 すると「足の裏が、水の中にとどまると、上から流れ下って来る 水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」との、その通り に実現した。先に、川の水がそのようになってから、渡るなら簡 単だ。しかし、まだ水が岸一杯に溢れている時に、足を水の中に 入れる事は決して簡単ではない。「信仰」が必要だ。示され、語ら れた御言葉に従うことが、信仰であり、そして信仰もって従う時に、 主のみわざにあずかる。 肉眼に何も見えずとも、一歩従う時に、不思議が起きて、確か に主のわざを見る。私たちは、先が見えない状況は、不安で恐 くて進めない。もし見えたなら従うのにと思う。しかし見えたら信 仰は不要だ。すでに見えているのだから。先に、水がせき止めら れたのでなく、足を踏み入れた後に、せき止められた。 この順序は重要だ。もし見えたら、従おうと思うなら、一生従えない。 今、示しがあるなら、御言葉を頼りに、何も見えない中で、一歩踏 み出そう。難しいなら、ありのまま助けを求めて祈ろう。そうする 時に、素晴らしい祝福にあずかる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 先が、全く見えない中を、御言葉だけを頼りに、一歩を進み出 すのは、大変に勇気が要る。恐れと同時に、しかし御霊の自由も 経験する。その信仰を、主は豊かに祝福して下さる。恐れがあれ ば祈ろう。必ず助けて下さる。