2025年07月28日(月)

「イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が 見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見える ようになった」マルコ8:25



主は、みもとに連れられて来た盲人に、両眼につばをつけ、両手を
当て、「何が見えるか」と問われた。すると「人が見える、木のよ
うだが、歩いているのが見える」と。見えたのだが、鮮明でなく、
人が木のようにぼんやりだった。主は、再度、彼の両眼に両手を当
て、彼が見つめていると、すべてのものが、鮮明に見えるようにな
った。

つまり、まず目が開かれ、ぼんやりと見え後、更に「見つめて」い
ると、「はっきり」見えるようになった。私たちはどうだろう。主
がぼんやりしているだろうか。人が木のように、ぼやっ〜とだろう
か。まず、ぼんやりしている事を認めよう。そこから祝福は始まる。
そこを、あいまいにしていれば、天国へは行けるが、霊的には、ず
っとぼんやり状態のままだ。もっと鮮明に知りたいと、主に祈り求
めよう。

盲人は、じっと見つめた。そのように、多忙な世にあって、主との
親しい交わりの時が必要だ。この世の事に忙殺されているだろうか。
しかし見えるためには、主との時間がどうしても必要だ。主がぼん
やりのまま進むと、自力で、自分の思いで生きてしまう。そこには
心の満たしが無いので、この世の魅力的なものを求め、この世の価
値観に影響受けてしまう。

しかし更に心の奧は、ぼんやりのままで満たされない。このままで
なく、真に主を、主の愛を、真実を、喜びを、満たしを知りたいな
ら、主は必ず与えて下さる。目の前の一歩に従ってみよう。次に展
開して行く。
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自分の思いで一杯なら、主がぼんやりとしか見えないのではないか。
一歩、一歩、主と共に歩みながら、個人的に受ける励ましや、導き
を通して主を知っていきたい。見えていない現状を認めて、主をし
っかりと見つめていたい。