2025年10月28日(火)

「外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、 ということがわからないのですか」マルコ7:18



この世の価値観では、外側から入るものが、人を汚すと思う。その
ように見える。生い立ちが不幸だった、酷い環境だった、社会が悪
い・・だから、子供は非行に走り、大人は犯罪を犯すと。環境さえ良
くなれば、社会さえ良くなれば、人間は良くなる。悪い影響を取り
除けば良いのだと。性善説だ。

しかし、親が愛情を持って育てたとしても、人は罪を持って生まれ
た罪人であり、ある人は、肉の欲望のために生きるかも知れない。
聖書は正反対だ。環境が人を汚すのでない、環境は人を汚すことが
できないと。人は罪を犯したから、罪人なのでなく、罪人だから罪
を犯す。環境さえ良ければ、善人になるのではない。「義人はいな
い。ひとりもいない」、環境がどうであれ、人の心から出るものが、
人を汚す。

「内側から、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、
殺人・・これらの悪は、内側から出て、人を汚す」。妬み、憎しみ、
様々な問題が起きて、争いが起きる。それらは、関与する人々の心
から出る問題だ。内側から出て、問題を起こす。心に原因があり、
内側から出る「罪」が人を汚す。主はそのところに、十字架で解決
を下さった。

主の流された血潮によって、私たちの心も良心もきよめられる。主
は罪を赦し、心をきよめて下さる。そして自我まみれの自己中心の
古い人は、キリストと共に十字架につけられたと。信仰によって受
け取って行ける。主の血潮によってのみ、私たちの内側はきよめら
れる。
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自分の内から湧いてくる罪を自分できよめる事は出来ない。出来な
い事を日々認めさせられるが、その醜さのために主の十字架がある
事、自分ではなく主がきよめてくださる事を覚えるとき、また前に
進める。