2004年06月27日(日)

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)

家族で登山をした。末っ子が、リュックサックを自分も嬉しげに背負った。途中でバテて来た子供は、父親がリュックを持ってやろうと言うのに聞かなかった。放すのが嫌で、どこまでもかついでいたかったのだ。やがてとうとう疲れてダウンした。父親は子供をそのまま背負って登った。結局父親の背にいる間も、子供はリュックを手放さず背負ったままだったのだ。これは私達の思い煩いの光景だ。神は思い煩うなと、思い煩いを手放すように常に言っておられる。ところが私達はしっかり握っている。絶対に放さない。そうすると、自分の力で歩む事になる。それでもし、うまく行くと、委ねないので栄光を自分に帰して、恐るべき高慢に陥る。良い事は一つもない。今すぐリュックを神の手に渡し、神に背負って頂こう。
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思い煩いの強い人は、思い煩いが好きなのだ。とんでもない、苦痛なのにと思うが、心の底をよく見るとわかる。そこにいたいのだ。思い煩いと共存していたい。しかし、サタンがそこに足場を得て、神への不信仰へと誘う。だが、その弱さは強みとなる。サタンの攻撃の度に、そこに信仰と置き換えるなら、思い煩う度に、逆に確信として深められる。