2004年09月27日(月)

「すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」(ルカ15:28)

放蕩して戻って来た弟に、兄は腹を立て、むくれた。自分勝手に好き放題をして、それで帰って来て宴会とは何事か。自分は戒めを破ったことは一度もないと言った。しかし、そんな事はあり得ない。自分の罪がわからない。まず隣人を愛せよの、弟への愛がない。子山羊一匹もらった事がないなど、父が良くしてくれた事がないなどあり得ない。自己中心で、自分には甘く、人は裁き、自分の事も父も弟をも正しく見る事が出来ない。物事を自分中心にしか見られない。不満を隠し、うわべだけ、形だけで仕えていた。それが弟の帰宅で爆発、本性があらわになった。父の一番近くにいながら、その心は父から遠く離れていた。結局弟と同じだ。父の愛がわからない、感謝がなく、喜びがない。これは私達の姿でもある。しかし、父は、わたしのものは全部お前のものだと、兄への深い愛を優しく表明。
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自己憐憫、自己中心、自己愛に陥ると、神のお心が全くわからない。祝福が全く見えない。砕かれた、へりくだった心でいる時、神の愛と憐れみが溢れ流れ込み、心が感謝と喜びで溢れる。私達の居場所で天と地ほど違う。自分の内に兄の姿を認め、弟のように悔い改める時、神の愛に触れ、愛がわかる。