2004年10月27日(水)

『「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」・・そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった』(マルコ8:24)

部分的色盲がある。ある種の色だけが見えないのだ。健康な人には見えていて自分には見落としている色があるのだ。霊的視力も同様だ。自分が全く気づいていない盲目の部分があるのだ。自分の強い自我のある部分は見えない。プライドが強い人はそこが、虚栄心の強い人はその部分が、高慢な人はその部分が盲目だ。だから、人を傷つけていて、全く感じない事があり得る。人を見下し、さばいていてながら認識できない。主に癒された盲人は最初、人が木のように見えた。ぼんやり、ぼおーと見えたのだ。それで、もう一度主が両眼に手を当てると、今度ははっきりと見えるようになり、目の前の主が見えた。目を開いて下さるのは主。主の元へ行こう。ぼんやりした状態から、はっきりと見えるようにして下さる。
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片手間に見ていては、何も見えない。流されて、人生ぼんやりしたまま終わる。自分の内をじっと見つめるなら、罪がはっきりと示され悔い改めに導かれ、変えられる。「見えるか」でなく「何が見えるか」と問われる。人が木のようにぼんやり見える状態を正直に告げ、主を、自らの内を真剣に見つめるなら、はっきり見えるようにして下さる。