2005年01月28日(金)

『「私のそむきの罪を主に告白しよう」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました』(詩編32:5)



王であるダビデはその地位を利用して、ウリヤの妻であるバテシバを王宮に召しいれ姦淫の罪を犯した。バテシバも自分には夫がいると拒否すべきであった。罪を覆い隠すためにウリヤを殺害、罪に罪を重ねた。罪に煩悩する苦悩の日々を過ごす中、神は預言者ナタンを遣わされ、ナタンはダビデの罪を正面から指摘した。その時ダビデはアダムのようにエバに責任転嫁をしなかった。バテシバにも罪はあったが、いっさいの弁解も、言い訳もせずに、自分の罪を潔く認めた。これはがダビデの素晴らしいところだった。神は罪を赦し回復させて下さった。人は蒔いたものを必ず刈り取る。ダビデはその後苦しい刈り取りをしたが、「信仰の人」として名を連ねている。
――――――――――――――――――――――
犯した罪に対し、肉は瞬時に自分を正当化し、言い訳や責任転嫁をはじめる。けれどそれで真に平安が来るだろうか。神様に自分の罪を認め、言いあらわす時、はっきりと神様の赦しを確信して平安を取り戻していく事を経験する。