2009年12月01日(火) 「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12
「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12
アダムとエバへの誘惑が、「あなたがたが神のようになり」であった。自分が神 になり、判断し、自分の知恵と力で生きて行くことであった。 その通りに、アダムもエバも知恵がつき、自分が神になり、自分は正しい、悪く ない、相手が悪いと自分を正当化し、責任転嫁して行った。自分の罪を見るのは 苦しく、こうなったのは、あの人、この人のせい、環境が悪いと、人や環境のせ いにするなら、自分を見なくて済む。 これは責任転嫁であり、逃げる事だ。そこには何の解決もない。自分の問題と向 き合う事だ。自分の罪、又、自分の弱さと真正面から向き合う事から解決が始ま る。 それを正直に、神の御前に告白して行くことだ。これが責任転嫁でなく、自分で 責任を取るということだ。罪は完全に赦され、解き放たれ、神はその罪を二度と 思い出されない。 ある人が、父親と折り合いが悪かった。小さい頃、父親はアル中だった。酒を飲 むと家族に暴力を振るった。父親への憎しみがどうにもならなかった。苦しみの 悶々を通った。この自分の苦しみは、すべて父親のせいだと思っていた。 しかし、ある時、示された。父親は父親の問題であり、どうであれ、自分が父親 を憎むということは、自分の「罪」なのだと。今まで、父親が悪いとしか、そう しか見えなかった。しかし、自分の罪を認めて、悔い改めた時、初めて自分が変 わった。凍りついた心が溶けて行き、自由にされ、平安が心に臨んだ。 ・・・・・・・・・・・・ 言い訳し、自己正当化し、責任転嫁する、これが肉であり、罪の性質だ。肉は常 に自分が正しく、悪いのは相手だ。肉は心地良いが、これなら一生涯何の成長も 無い。言い訳している限り、決して成長は無い。いっさいの言い訳を止めてみよ う。