2010年05月01日(土)

「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」箴言18:21

人間の心の本当の姿が、表れ出されている。「死と生・・を愛して」とあるが、
私たちは単純に、善を愛して、悪を憎んでいると思っている。悪を憎んでいるが、
古い性質があるゆえ、そこにはまってしまう事で悩んでいると。

しかし、御言葉によると、死を愛する心があると言っている。罪を本当は憎んで
いるのではなく、愛していると。例えば、自分を傷けた相手を憎んでしまう。憎
むのは、自分が苦しいし、辛い。だけれども、許せなくて、憎しみが募るのだと
思う。

しかし、心の底の底を探られると、憎みたくないのでなく、憎んでいたい。赦せ
ないのでなく、赦したくない自分がいる。どうしようもない自分に、自我に行き
着く。

その時、主の十字架、主の流された血潮が、頭ではなく、現実味をもって迫って
来る。まさにこのために、この自分のために、主は御からだを裂かれて、血を流
されて苦しまれたのだと。自分の罪が見えて、十字架の赦しがわかる。

又、舌は死と生を支配すると。言葉は種であり、「その実を食べる」必ず死か生
の実を結んでしまう。否定的、批判的、懐疑的な言葉の種を蒔くか、肯定的、建
設的、前向き、信仰的な言葉の種を蒔くか、自分自身の選択だ。

日常を振り返る時、必ずそれぞれの実を刈り取っている。否定的状況が来た時、
神の言葉を思考の部分に置く時、心が驚くばかりに守られる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
古い性質があり、肉は自分に敵対する者を憎みたい、何倍にも報復したい。強烈
な自我がある。その自分を認めることから解放が始まり、十字架で赦されている
自分を見い出す。御霊に示される通りに従って行く時、御霊の力によって、自分
が変えられて行く。