2010年12月01日(水)

「・・神のわざがこの人に現れるためです」ヨハネ9:3


弟子たちは盲目の人を見て「誰のせいか、先祖か、本人か」と盲目の原因、理由を過去に言及した。因果応報の考え方だ。二千年前だけでなく、今も、人々の価値観は同じようだ。立て続けに悪い事が起こればどうだろう。病気、けが、入試不合格、リストラと家族に次々起きたなら、世では確実にお祓い騒動だ。

因果応報の価値観は、古い性質にしっくり来る。犯人探しをし、突き止めようとする。そうすれば納得が行くのだ。得心する。しかし、何の解決も無い。落ち込み、諦めるしかない。主は、全く別の次元の答えを言われた「神のわざがこの人に現れるため」と。これを聞いた盲人はどんなに嬉しかっただろう。

今まで、人々の心無い言葉にどんなに傷つき、苦しんだ事だろう。主は過去ではなく、未来の事を言われた。これから神の栄光が現れると。私たちにも培われた価値観が根深く無いだろうか。一見、負の事が起きると、何で?あれが悪かったのか?この人のせいか?罰か、報いか?よぎるだろうか。

それは肉の思いであり、主は、今、目の前に起きている悩み、問題、それは主の栄光が現れるためであり、それを通して、主の素晴らしさを現すと言われる。何と嬉しい事だろう。苦しみに目的があり意味がある。「神の栄光が現れる」そこに立っていよう。
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常にやって来る問題の中でその背後の神様を見て、信仰にとどまり続けるなら、それだけで私達は光を放つ。すべてに意味があり神から与えられたものだ。主が最善をされているとの確信を持ち続けたい。