2011年08月01日(月)

「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」ミカ6:6


私達は、自分が犯した罪が赦されるために、何か必要なのだろうか。ミカは、どこまで行なえば受け入れてもらえるのかと言っている。何をもって御前に出たらよいのか。一歳の子牛を献げたらよいのか。いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油が必要なのか。いや、それでも足らなくて、長子を献げなければならないのか。罪意識が強くなる時に、それを何とかしようとするなら、子供を殺すまでに行くと言っている。

とにかく犠牲が大きいほど、神に喜ばれるのではと考える。これは「邪悪な良心」だ。良心に邪悪なものがあるのかと、不思議な気がするが、邪悪な良心とは、神を認めない心だ。神のして下さった事を認めない。主の十字架により、何もかもが解決されている。すでに完了している。罪の赦しは成就されている。それを認
めないで、それでは足らないので、何かをしなければと思う心だ。つまり、完全に赦されている事を信じない。赦されるはずが無いと思っている。

信じないので、行ないを付け加えて受け取ろうとする。それなら子供をいけにえにするところにまで行き着く。供え物の大きさで、主の御前に立とうとする。そうでなく、主の犠牲により、無代価で、無償で、すでにいっさいのかたが付けられている。このプレゼントを、恵みを、感謝して受け取る事こそ、神の御心であり、喜ばれる事だ。その時、血の注ぎを受け、邪悪な良心がきよめられ、素直な心にされ、真心から神に近づける。
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主の十字架により私達と神との間を隔てる罪はもう完全に赦されている。主の血が流されないと赦されないほどの罪を神は洗って下さったのだから、あとは真っ直ぐに神に向かって近づいていこう。