2012年07月01日(日)

「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願 いました」Uコリント12:8



パウロは、肉体に一つの「とげ」が与えられたと言っている。これを取り去って
欲しいと、パウロは切に、主に祈った。これさえ無ければ、もっと主のために働
けるのにと思ったかも知れない。しかし、主の答えは「ノー」であった。とげが
あった方が、「キリストの力」におおわれ、主を更に深く経験して行けると。

主の御力は、弱さの中にこそ、完全に現れるからだと。私たちもどうだろう。こ
れをこうして欲しい、あの状況を変えて欲しいと、祈っても祈っても、幾ら祈っ
ても答えられない祈りがあるだろうか。全く状況が変わらない。

その時は、状況が変わるのではなく、その状況のまっただ中で、キリストの力を
知る時とされているのかも知れない。「とげを去らせて欲しい」、私たちは、こ
の苦しい状況さえ過ぎ去れば、幸せになれるのに、何とかして欲しい、あの人さ
えいなければ、人生バラ色なのに・・と思うだろうか。しかしそうではなく、その
中で、十分な主の恵みを味わう時とされる。

そして「信仰がためされると忍耐が生じる」、「患難さえも喜んでいます。それ
は、患難が忍耐を生み出し」の通り、忍耐が与えられ、それは忍耐が培われる時
とされる。その忍耐は「練られた品性を生み出」す。

主のかたちへと変えられて行く。祈りは答えられている。主の御心のままに、あ
る時は状況が変えられる事によって、又、状況が変えられなければ、心を変えて
乗り越えさせて下さる。
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苦しい時は、ただ苦しみが去る事を一心に願う。状況が変わる事を願う。しかし、
そんな時こそが、今まで知らなかった主を知る時であり、主の恵み、主の平安を
知る時だ。状況が全く変わらなければ、自分の心が変えられるよう祈ろう。