2012年12月01日(土) 人の忠告が素直に聞けない事自体、自分の内に自我がある証拠だ。 何に触れて痛いのだろう。考えてみよう。「自分は正しい」に立つ なら、暗闇の中だ。自分に見えていない事が、人には見えている。 人を通して主が語られる。聞く耳により、主は変えて行って下さる。
人の忠告が素直に聞けない事自体、自分の内に自我がある証拠だ。 何に触れて痛いのだろう。考えてみよう。「自分は正しい」に立つ なら、暗闇の中だ。自分に見えていない事が、人には見えている。 人を通して主が語られる。聞く耳により、主は変えて行って下さる。
「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を 聞き入れる」箴言12:15 「愚か者は自分の道を正しいと思う」とあり、自分の考えが人の考 えよりを正しいと思う時、必ず他人の助言や忠告を聞くことができ なくなる。自分が正しいのだから、人の意見など聞くに値しない。 自分は正しく、間違っているのは、常に他者になり、人を批判し、 非難する。外に出さなくても、心の中で裁くようになる。人を裁い ている時は、よく自分の内側を照らされると、自分に同じものがあ る。自分を映す鏡となっている。 主は自分自身を照らすために、その人を置いておられる。「知恵の ある者は忠告を聞き入れる」主は御声をかけて下さるし、又、人を 用いられる。 ある人が、軽はずみな冗談で、相手を笑いものにし、傷つけてしま った。相手は、「それは良くないよ」と、怒ってではなく、冷静に 真っ直ぐに忠告してくれた。その時に痛かったが、御霊を感じ、自 分でも素直に聞けて、謝った。 その後、祈りの中で「軽率に話して、人を剣で刺すような者がい る」、今までも数々、人を傷つけて来たことに気づかされ、悔い改 めた。真正面から忠告してくれた相手に、心から感謝した。忠告を 受けると、自我に触れ、プライドが傷つき、怒りが湧くという、肉 の反応が出がちだ。 又、どうしても痛いので、せっかく警告してくれる人に、距離を置 いてしまったりする。素直に「忠告を聞き入れる」なら、悔い改め ることもできるし、矯正され、新たにされ、成長して行ける。自分 自身に大きな益とされる。 ・・・・・・・・・・・・