2013年12月01日(日)

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、 困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強い からです」Uコリント12:10 



時々、私たちの思いと、神のみ思いが大きく異なることがある。神
は私たちに祈れ、願えと言われ、祈りを喜んで下さる。しかし、祈
りが聞かれるとは、自分の都合の良いようになる事ではない。私た
ちは自分の思い通りにしたいとの、肉の強い思いがある。自分の思
い通りに、祈りを叶えて欲しい。

しかし、しばしば、神のみ思いは異なる。例えば、私たちは、生ま
れつき腕が動かないなら、腕が動くことがいやしであり、祈りの答
えだと思ってしまう。しかし、もし、腕が動かなくとも、生き生き
とした喜びと平安、感謝に溢れた人生を送れるようになる、それ
が答えであるかも知れない。

祈りが聞かれるとは、自分の都合の良いように、思い通りになる事
ではない。障がいを負ったある人は、もし、このままの方が神の栄
光が現れるなら、このままで良いです、御心のままにと祈った。結
局は、私たちの目標は、神の栄光が現れることだ。

パウロはトゲが取り去られるよう3度も祈ったが、主は、それがあ
る方がより栄光が現れると言われた。ある人はトゲが取り去られ、
ある人は残される。どちらも結局は、神の栄光のためだ。その人に
とり、その方が神の栄光が現れる。
私たちの「なぜ?なぜ?」と不満と愚痴の部分を今一度、御霊の光
に照らして受け取り直そう。主の栄光のためではないだろうか。

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自分の思いと神の思いが、しばしば違う。自分の強い思いに固執し
ているなら、祈りの答えに気づけないし、わからない。自分の思い
をおろして、神のみ思いは?に心を向けて行くと、祈りが別の形
で答えられていて、どんな中でも豊かな祝福を見い出せる。