2014年07月01日(火)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26



多くの群衆が主のあとをついて、主を追いかけていた。しかし、主
を信じ、主に従うためではなかった。「パンを食べて満腹した」通
りに、主がされる奇跡を求めて、自分の願望を満たしてもらうため
に、追い回していた。主を求めてではなく、ただ、自分の願望が満
たされたいがためだった。

私たちの信仰が、自分軸で回るなら、自分の願いが満たされ、自分
の思いと合致している間は良いが、思い通りにならなくなった途端、
主から離れ去ってしまう。従う意味がないからだ。この世のご利益
宗教と同じになってしまう。

ある人が証しした。どうしても叶えて欲しい願いがあった。「求め
なさい。そうすれば与えられます」の御言葉に乗っ取り、懸命に求
めた。主にしがみつくように、祈り倒さんばかりに、祈りに祈った。
どうあっても与えて欲しくて、必死に祈り、願った。しかし、幾ら
祈っても与えられず、深い失望落胆に襲われた。そんな落ち込みの
中で、御霊に心を深く探られた。自分は、パンが欲しいだけなので
はないか。主が、パンのための手段になってしまっている。

自分の願望を満たすことしかない。自らの心を照らされ、涙ながら
に悔い改めた。赦しを受け取り、心がすっきりした。すると心が変
えられて、その願望自体が失せてしまった。もういいと思え、御心
のままにと思えた。それが不思議が起きて、その後、その願いが叶
えられて驚いた。主が、何より内側を正しく導いて下さった事に感
謝した。
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あれが欲しい、これを取り去って欲しいと、欲しい!ばかりの祈り
でも最後は主の御心なら感謝して受けますと、主に対する信頼を確
信して祈りを終えたい。主の御心ならたとえ奇跡が起きなくても希
望はなくならない。