2015年08月01日(土)

「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内 側は、強奪と邪悪とでいっぱいです」ルカ11:39


主は、パリサイ人に対して、非常に厳しい言葉を語られている。
「忌まわしいものだ。パリサイ人・・」「偽善の律法学者、パリサイ
人」「目の見えぬ手引きども」「外側は人に正しいように見えても、
内側は偽善と不法でいっぱい」・・と。主は、彼らを憎まれたのでは
なく、彼らが悔い改めることを望んでおられた。

主は内側を見られるので、幾ら外側をきよめても、何にもならない。
主が喜ばれるのは、内側の罪深さ、醜さ、憎しみ、妬み、高ぶり、
偽りを悔い改めることだ。パリサイ人は外側だけを、行ないだけを
問題にした。今の私たちは、パリサイ人を外側から見ることができ
るが、しかし、自分自身もまた、容易にパリサイ人になってしまう。

人からどう見られるかを、外見が気になって仕方がない。良い人に
見られたいので、無意識にも、良い人を演じ、振る舞ってしまう。
人目を気にして、繕ってしまうと、良い人でも何でもない自分を、
良い人だと思い違いしてしまう。そして、どんどん高慢になって行
ってしまう。

真実の自分は、妬みや憎しみ、裁き、赦せない思い、怒り、いら立
ちでいっぱいだ。これならパリサイ人と同じになってしまう。主は、
自分自身の真実の姿を教えよう、〃として下さる。礼拝メッセージ
や、学びや、デボーションの御言葉を通して、本当の自分を照らし
出して下さる。悔い改めに導いて、赦すために。それによって、偽
善に陥る事から守られる。

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外側、良い人を演じて、繕ってしまうと、内側も良い人だと、自分
で思い込んでしまう。主が愛していて下さるのは繕った自分でなく、
本当の自分だ。本当の自分がわからなくなるのは致命傷だ。いつも
内側をそのまま受け止めて下さっている主に祈って行こう。