2017年05月01日(月)

「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8


ルステラで宣教していた時に、生まれながら足のきかない男性が座
っていて、一度も歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語ってい
た時に、その人が丁度そこにいて、じっと聞き入っていた。彼は自
分の足に関して、何の手だてもなく、何をする事もできなかった。
どうやっても歩く事は不可能で、自分に何の望みも置けない、完全
無力の状態だった。

自分で何をどうする事ができない。何の方策も無い。だからこそ、
「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがっ
た。全くの無力だからこそ、すがれた。彼にはこの言葉しかなかっ
たのだから。全望みを置いて信じてすがりついた。この言葉がすべ
てだった。もし自分に何かができ、力があれば、御言葉にすがる事
はできない。どこまでも自分に頼り、自力でやってみる事だろう。

無力だったので、その言葉に拠り頼んだ。信仰が働き、神の力によ
り奇跡が起きた。一度も歩いた事のない彼が、飛び上がって歩き出
した。私達も自らの無力を知る時が、信じる時だ。何の方策も無く、
何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて信仰
が働く。

自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神へ
の信仰は無い。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやっ
て行く。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を明け渡し、委ねて
行く事だ。ゆえに、自らの無力を知る事が大きな祝福であり、幸い
だ。
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あまりに大きな試練が来るともう委ねるしかないと、逆にすっぽり
主の平安に包まれることがある。日常生活の中で感謝が失せ、スト
レスを感じる時、御言葉に向かいまた心を新たにされよう。