2018年08月01日(水)

「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり・・人のうちにあるものを知っておられたので・・」ヨハネ2:24




大勢の人が主の奇跡によって、主を信じたが、主は彼らにご自身をお
任せにならなかった。任せるとは、信頼する、信じる、心を与えると
いう意味だ。カナで最初の奇跡を行なわれ、次々と奇跡をされた。そ
れらを見た人々は主を信じた。しかし、主はしるしを見て信じた人々
にご自 分を委ねられなかった。主はよく人の心をご存じであった。

しるしにより心動かされ信じても、その感動は一時的なものに過ぎず、
感情はいつか必ず冷める。しるしだけを求めるなら、試練の時に立ち
行かない。必ずつまずき、離れ去る。軸が自分にあり、自分が中心な
ので、自分のための信仰で、自分に得るものが無ければ離れる。

主は奇跡をされた時、必ず御言葉によって行なわれた。主の口から語
られる一つ一つの言葉によって、みわざが成された。しかし人々は御
言葉より、目に見える奇跡の方に心奪われ、夢中になる。だが奇跡を
見て信じた人々は、皆、去ってしまった。出エジプトを経験したイス
ラエルはあれほどの、主の超自然のわざを見たのに、すぐ荒野でつぶ
やいた。

荒野でも奇跡を見続けたにかかわらず、結局カナに入れず、荒野で不
信仰のゆえに滅んでしまった。主を信じるとは、主が語られた御言葉
を信じることだ。御霊により語られた言葉を信じ受け入れ、そして御
言葉に従う時、信仰が確かなものとされて行く。従うとは、自己中心
な自我を捨て、自分を、自分の思いを捨てることだ。
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奇跡的に物事が動くとすぐにこれが御心かと思う。それ程、人の思い
はしるしを求めてしまう。御言葉が伴わない奇跡は主からのものでは
ないと、見たいように見てしまう思いに気をつけていたい。