2020年10月01日(木)

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20:24



ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようと、ヤコブを剣で殺
害した。それがユダヤ人に気に入られたのを見て、次にペテロを捕
らえにかかった。ペテロを捕らえ、投獄し、民の前に引き出そうと
していた。しかしペテロは、何と引き出される日の前夜に、突然、
主の御使いによって、牢から救い出されたのだ。

「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」の通り、教会
ではヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。その結
果、ヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。これらは何が違う
のか?なぜ?と思う。これは、ヤコブとペテロそれぞれに対する、
主のご計画であり、それぞれへの召しだ。その違いだ。ヤコブは殉
教によって、神の栄光を現わし、ペテロ更に宣教の任務が与えられ
ていて、それによって神の栄光を現わす。

ヘブル11章に、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」とあ
り、奇跡に次ぐ奇跡により前進して行った。そして同時にある人々
は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺さ
れ、乏しくなり、苦しめられ」と、殉教して行った。

見えるところは、全く違うが、どちらもが「信仰によって」歩んだ
と記されている。一人一人に備えられた主のご計画があり、それは
一人一人全く違う。隣との比較でなく、主から自分に与えられた人
生、自分に委ねられた行程を全うする事が、一番の喜びと平安の道
だ。
---------
ヤコブは死んでペテロは助かっても、どちらも命が助かることだけ
を祈ってはいなかっただろう。自分だけに与えられている道をしっ
かりと受け止め、主に信頼し平安に満たされて歩みたい。