2023年07月01日(土) 「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由がありま す。」Uコリント3:17
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由がありま す。」Uコリント3:17
信仰は、窮屈で不自由、縛りつけられるのではと、思う人々がいる。 あれはダメ、これはダメ〜、窮屈ではないかと。たばこ、飲酒はダ メ、ギャンブルはダメ・・と。しかし、真の信仰は決して窮屈ではな い。むしろ逆だ。「ねばならない」の窮屈な重圧の、かせから解き 放たれて、自由にされる。魚は水の中で、自由自在に泳ぐことがで きる。もし魚が「水の中だけなんて嫌だ。なぜ水に限定されるのか。 窮屈で不満だ。陸に自由に上がりたい」と言えばどうだろう。 それは即、死を意味する事になる。又、楽器演奏者はどうだろう。 楽譜にそって演奏するが、その譜面は拘束で、不自由だろうか。自 分を忠実に楽譜に合わせて、演奏する事によって、素晴らしい曲が 奏でられる。約束事に、ルールに、縛られる事が嫌で、自分の好き なように、やりたい放題する事が自由だと勘違いするが、それは自 由なのではない。それはわがままで、放縦だ。 肉の欲望が遂げられること、欲望が叶えられることが幸せだと、勘 違いするが、しかし心に平安は無い。御霊の実を結ぶ事もない。自 由とは、御霊に従うところにある。御霊に従えば、従うほど、ます ます〃自由になって行く。喜びに満ちる。愛する事が自由で、平安 があり、憎む事は不自由で辛い。 肉の性質は、嫌いな相手は憎んでいたいが、しかし心は重く苦しい。 喜びは無い。御霊はそこから解放して下さる。ありのままを祈り、 御霊の示しに一歩従おう。すると次の一歩が示され、自由に、自由 にされて行く。肉の喜びでなく、御霊の喜びを経験して行く。 ・・・・・・・・・・・ 自分の思い通りに、好きなように、したいようにする事が自由だと 思ってしまうが、それは肉の欲望だ。しまう。しばしの快楽はある が、平安は無い。ますます欲求不満となる。御霊に解決がある。御 霊の示しに従ってみよう。