2024年12月01日(日) 「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」 創世記11:1
「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」 創世記11:1
有名なバベルの塔だ。初めは、全地は一つの言葉だった。 互いに交流し、意思疎通ができた。そんな頃、人々はシヌア ルという住み良い平地を見つけ、定住した。彼らは、神から れんがを作る技術が与えられ、れんがとれき青で、建築物を 作る事ができた。対話もでき、肥沃な地に住み、素晴らしい 建築技術も与えられ、すべては主からの賜物であり、恵みで あった。豊かな祝福であった。 しかし、「その内に彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」 と言い出した。主に感謝し、主を崇め、栄光を主に帰するの でなく、その動機は「自分たちのために」であった。自分の名、 名誉、賞賛と、「自分」が神の位置に着くようになった。神から 与えられた能力を、自分の欲と栄光のために使うようになった。 「自分が」「自分の」自分、自分、これがアダムからの罪だった。 「その内に」とあり、最初は良かったのだが、途中で、方向性が 狂って来た。「我々が散らされるといけないから」と。主はノアと 息子たちに「生めよ、ふえよ。地に満ちよ」と祝福され、地に満 ちて行くようにと。その主への反逆であった。主は言葉を乱し、 意思疎通をしゃ断された。 その結果、塔建築が不可能になり、「彼らは建てるのを止めた」。 主が介入され阻止された。そして人々は全地に散らされた。高慢 による事であった。私たちも、どうだろう。言葉が通じず、気持ち が通じない時、秩序が乱れる時、そこに神を忘れ、「自分が〃」 の高慢がないだろうか。まず主を仰ぎ、主の前にへりくだる時に、 そこには御霊の一致がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「自分が、自分が」になっている時、肉がサタンに誘惑され、耳 を貸している時だ。神に頼らず、自分の思いと力で歩んでいる。 人とまさつを起こし、主と正反対の方向に向かっている。御霊 が、己中心に気づかかせて下さることが感謝だ。