2025年09月01日(月)

「しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった」 出エジプト8:32


モーセを指導者に立て、エジプトから苦難の民を救出の際に、
主は次々と奇跡をされた。パロは、次々と様々な災害に苦し
められた。すると、苦しみの余り「民を出て行かせる」と言うの
だが、苦難が去ると「行かせない」と翻す。又、苦難が臨むと
「私は罪を犯した。行かせる」と言う。「祈ってくれ」とまで言い、
一見、悔い改めのように見えるが、事が収まると、頑なになり
強情になる。

これは目の前の苦しみを、何とかして欲しいだけで、悔い改め
ではない。口先だけの事で、心では思ってはいない。王であり、
すべてが自分の思うがままに回って来た、パロにとって、主の
奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。脅しが無くなれば、問題無い。
そのため元に戻り、何も変わらない。主のみわざが、悔い改め
を生み、主のご愛や真実を知る事にはならなかった。

私たちはどうだろう。苦しみは、ただ単に災難であり、去りさえ
すれば良いのだろうか。それならパロと同じになってしまう。
「わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」。様々
な悩みや苦しみは、「わたしが主であることを知るため」に送ら
れている。

それは、主ご自身が、真の神である事を知る時であり、又、自
分の内側が、罪が照らされる時だ。悔い改めに導かれるかも
知れない。目の前の問題は、「わたしが主であることを知る心
を与える」ためと受け取り、学べるよう祈ろう。

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パロに悔い改めはなく、ただ、目の前の状況が不都合なだけ
で、心は強情で、頑なだった。そのためすぐ元に戻った。自分自身
も、様々な事柄を通して、自らの強情な心を照らされ、そこを祈
りに持って行けるように。そして変えられて、主を知れるよう祈りたい。