2005年01月01日(土)

[ダビデは言った「私は主に対して罪を犯した」ナタンは・・言った「主もまたあなたの罪を見過ごしてくださった」](Uサムエル12:13)

職場のチーフである婦人。部下にミスが続出。口では「いいよ」と慰め、寛容に振る舞うが、心では「もう、また」と相手を責め、いら立っている。ところが次の瞬間、何と自分がするはずの無いミスをした。すると、そのミスが認められない。忙し過ぎる、疲れているからと、言い訳、弁解をし、自分を正当化している。しかし、その瞬間、何と罪深い自分と気づかせられた。自我は過ちを認めたくない。しかし、赦しはすでに備えられている。罪を認める者に与えられる。ダビデにも言い訳はあったろう。バテシバだって悪いではないかと。しかし、ダビデは自らの罪にのみ向き合い、認めた。認罪の低い門を通る時にのみ、赦しの喜びにあずかる。あなたには、認めたくない罪があるか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ダビデの立派なところは、いっさい言い訳せず、自分の罪と真正面から向き合い、認めた事だ。人間は高ぶっているので、「ごめんなさい」が一番難しい。へりくだる事であるからだ。しかし、神は“心砕かれてへりくだった人と共に住み、へりくだった人の霊を生か”される。