2006年03月01日(水)

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」(ヤコブ3:18)

証しをするつもりが、なぜか議論になっ
てしまい、平安が失せた経験があるだろ
うか。主イエスを伝えたいのか、自分の
正しさを伝えたいのか。ここにも隠れた
自我が顔を出す。正しさに立つと必ず議
論になる。又、日常生活で、意見交換を
隠れみのに、実は自分の正当性を主張し、
結局は自己主張をする。議論のはずが、
感情的になり、いつしか言葉の応酬にな
る。感情的に発する言葉は後で必ず後悔
する。建て上げるどころか、足の引っ張
り合いだ。相手の言う事を聞くのでなく、
ただ自分の意見を通し、勝ちたい。絶対に
負けたくない。自分を通したい。こうな
ると全く立っている場所が違う事になる。
御心からそれている。平和とは和らぐ事
であり、調和する事だ。自己中心を捨て、
相手に耳を傾ける事だ。相手を十分受け
入れ、しっかり聞く時初めて、こちらの
言う事にも耳を傾けて貰える。柔和の中
で、証しの種が蒔かれて行く。
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自分の正しさを突き進めると、神様を隠れみ
のにした自我そのものである事を悟る。主に
あっては、愛する事が正しい事だ。大きな間
違いをしていて気づかない。自分が砕かれる
中で、必ず実を結ぶ義の種が蒔かれてゆく。