2025年09月15日(月)

「『確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べること はできない』・・そのとおりのことが彼に実現した」U列王7:19



エリシャの時代に飢饉があった。食物が失せ、人々が餓死して行く
中、エリシャが、明日、サマリヤの門で小麦や大麦が溢れるばかり
にあると言った。すると侍従が、そんな事はあり得ないと言った。
目に見えるところはひどい飢饉であり、不可能だ。エリシャは、あ
なたはそれを見るが食べられないと告げた。

そんな時、四人のらい病人が、町の門の入口にいた。町は大変な飢
饉で、自分たちは死ぬだろう。どうせ死ぬなら敵の陣営へ入ってみ
ようではないかと。もしや食料があるかも知れない。するとその時
に、主が敵に、大軍勢の騒ぎを聞かせられ、彼らに襲撃と勘違いさ
せられた。敵は驚き恐れ、陣営を置き去りにし、逃亡した。

そこで入ると、山ほどの金銀と溢れる食料があった。彼らは、王家
に知らせた。王は信じなかったが、部下に偵察させ、事実を知った。
すると大群衆が押し寄せたので、門の管理の侍従は踏みつけられ死
んだ。エリシャの言葉通りになった。実際主は、溢れるばかりの食
料を用意された。

しかしそれを信じなければ、自分のものとならない。豊かな食料が
そこにあるのに、餓死する事になってしまう。私たちはどうだろう。
神の愛、十字架の救い、罪の赦し、義とされる事、驚くばかりの恵
み・・、溢れる恵みの中で、不信仰で飢えていないだろうか。

自分で恵みを断ち切り、受け取らない侍従は自分の姿だろうか。固
い自我があるだろうか。信じようとしない自分に気づく事から、祝
福は始まる。ありのまま祈りに持って行き、溢れる恵みに、喜びに
浴せるよう、求めよう。主は祈りに答え、導いて行って下さる。
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赦されていても、どこかに罪責感があったり、弱いままではいけな
いと取り繕ったりしてしまう。主の備えておられる恵みの喜びから
遠く思える時、不安定に気づき、主の恵みに入ろう。