2009年05月27日(水)

“ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」”ヨハネ13:8

主は、弟子たちの足を順番に洗われ、ペテロの番になった時、ペテロはそれを拒
んだ。

当時は、洗足は卑しい仕事であり、靴でなくサンダルのようなはき物なので、歩
くと足が大変汚れた。その自分の汚い足を洗って頂くなど、大変な驚きで、とん
でも無いことであった。

私たちにもあるだろうか。自分の汚い部分を人に見せたくない、絶対に知られた
くない。醜い部分は隠したい。人に知られるのが恐い。嫌だ。

しかし、主はそこをあらわにしなければ、主と何の関係も無くなると言われた。
そこでこそ、主との関係が新たにされ、深められると。

私達は自分の良いところ、出来るところを見せたいものだ。人に認められたいし、
評価されたい。賞賛が欲しい。

しかし、主と私達の間はそうではない。罪を、又、弱い、醜い、汚い部分をすべ
て主に広げ、あらわにする時に、赦され、新たにされ、造り変えられて行く。主
はあなたの罪、あなたの弱さを、そんな事は知った上で、受け入れ愛して下さっ
ている。

自分が鍵を握る奥まった部屋を主に開こう。そして握っているものを明け渡して
行こう。主との関係が親密にされて行く。弱さに神の力が現れ、強くされて行く。

弱さを隠す事が、主との関係をシャットアウトし、自分が拒んでいる。「決し
て」洗わないでと、言っている自分がいないか。又、逆に、余りにも罪深く、洗
った頂く価値もないと尻込みしているか。

「その愛を残るところなく示された」どんな時も、何があっても、最後まで愛し
通して下さる。決して見捨てられない、主の愛を今日も覚えよう。

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ユダの足も洗われ、これから三度否むペテロの足も洗われた。ペテロは信仰が無
かったからでなく、弱さのゆえに失敗した。私たちの弱さをご存じの上で愛して
下さっている。日々足を洗って頂こう。関係が深められるとは何と感謝。