2009年10月27日(火)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12


コリントの人々は、自分で自分の心を窮屈にしていた。つまり、自分で心を狭くしていた。人から、外部から、心を狭くされるのではない。人も、外部も関係無い。自分の罪を認めなかったり、心にあるとがめを、そのままにして対処していないなら、つまり罪を悔い改めないなら、人の心は閉ざされて行ってしまう。

心が閉ざされるので、心はどんどん固くなり、頑なになる。すると、聞く耳が失せ、不平不満、批判、愚痴、自己憐憫に陥り、口から出る言葉もそのようになって行く。否定的な言葉しか出ない。

信仰的、肯定的、建設的な言葉が無くなってしまう。日常で経験するところだ。否定的態度になると、神を締め出し、神が全く見えなくなる。祝福が何一つ見えない。不平不満の暗闇だ。

その不満が、人に、環境に向くが実は自分で自分の心を窮屈にしている結果だ。自分の非を認めず、自己弁護し、言い訳し、自分を正当化して行くなら、更に自分を狭くして行く。人は罪の性質ゆえ、自分の罪に向き合いたくない。触れたくもない。

しかし、そうするなら、自分を暗闇に追いつめるばかりだ。「心を広くして下さい」神に心を開いて行く時、罪が赦され心が自由にされ喜びが満ちる。
今、心を自分で窮屈にしていながら、人や環境のせいにしていないだろうか。
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神の恵みの中で私達は、何も持たないようでも、すべてのものを持っている。自分の内で追い詰めているものは何か。見極め捨てながら、捨てながら、心ひろやかに歩んで行こう。