2010年02月24日(水)

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり・・」ヨハネ2:24



「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」とあるが、人々が信じたのは、奇跡を見たゆえであった。奇跡は、信仰のきっかけの一つになるかも知れない。人間には不可能な、超自然のわざに驚き、神を認める。

しかし、奇跡自体にとどまっているなら、それは信仰ではない。イスラエルの民は出エジプトに際して、紅海横断という後にも先にも無い、偉大な奇跡を見た。しかし、荒野に入った途端、不平不満愚痴の不信仰に陥り、果ては偶像礼拝だ。

主は五千人の給食の奇跡をされた後、群衆に「しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したから」ついて来ると言われた。パンのために=自分の願望を叶えて貰うためにだ。

自らの願望が満たされ、自分の思い通り、主が便利である間はついて行くが、願望が叶えられなくなった途端、失望し必ず離れ去る。ついて行く理由が無い。「しるしを見て、御名を信じた」の「信じた」と「ご自身を彼らにお任せにならなかった」の「任せる」は同じ言葉だ。

主を信じ、身まで任せると言っても、主を利用できる間だけの事だ。利用価値が失せ、都合が悪くなると、離れ去る。土の薄い岩地のようだ。芽が出るが、固い自我に阻まれ根差さないので、不都合が起きると枯れる。都合良かろうと悪かろうと、神が神であられるゆえに、礼拝して生きて行く。この恵みにとどまれるよ
う。
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信仰がないのに奇跡を見ても主に従えない。パンで満腹し病が癒されたから・・の感情が基準ではない。神が神であられるがゆえ歩みは遅くとも主に従って行けるし、また主も決して見放されない。