2010年04月26日(月)

「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20                  

父親に、生前分与してもらった財産を持ち、弟息子は遠国に去った。放蕩三昧で、
湯水のように浪費した。遊女におぼれ、身代を食い尽くした。身勝手、好き放題
して、のこのこ帰り、その挙げ句、豪勢な宴会とは何事か。

日々辛い仕事を怠けずに、しんどい目をして働いた自分は一体何なのか、兄息子
は受け入れられない。納得が行かない。怒りで身体を震わせた。長い間、行方不
明になっていた弟が、生きて無事戻って来たのだが、「あなたの息子」と、もは
や弟ではない。

しかし、弟は、無一文になるや、金の切れ目は縁の切れ目で、取り巻き連中は皆
去り、見捨てられた。誰一人気遣ってくれる者もおらず、崖っ淵の困窮の中で、
深い孤独、寂寥感、虚無感に呑まれた事だろう。

豚の番人、豚の餌、ユダヤ人が忌み嫌う動物だ。そこまで落ちぶれプライドも何
もかもグチャグチャだったろう。餓死という死線を通り、心身どん底だった。
父親は、弟息子が通ったこの限界ギリギリの苦しみ、辛さ、痛みをわかっていた
ので、心は慈しみとあわれみで一杯だった。

「だが、お前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ」弟は死を通ったのだ
と。父は兄への愛も溢れ、兄を叱らず、とがめず、なだめ、「私のものは全部お
前のものだ」と深い愛情を示す。この神の愛にあなたはどう答えるだろう。

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弟にも兄にも、同じように注がれている、父の深い慈しみと愛。心は父を離れ、
父の愛がわからず、心屈折させる兄をも、全く責めず、「私のものは全部お前の
ものだ」とは何という愛だろう。この愛で愛され、包まれている事を今朝も覚え
よう。