2010年07月27日(火)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった」ルカ15:28


兄は弟のように家出したわけではない。父親の言いつけを守り、父親のもとで懸命に働いた。しかし、兄息子にとって、父親とはあたかも労使関係だ。労働を提供して報酬をもらう。父親にとってこんなに悲しい事はない。

親が子供を愛するのは、まさに子供であるからであって、労働を提供してくれるからではない。クリスチャンも律法に陥ると、よく間違う。自分の努力や働きによって、神の愛を得ようとする。神に願いを聞いてもらいたいがために、懸命に奉仕する。

ある人が信仰生活を一生懸命頑張った。その結果は、疲れ果て、気づくと、人を責め、人を裁く嫌な人間になっていた。自分が絶対になりたくないと思っていたそのものだった。なぜこうなってしまったのか。

挫折して初めて、自分の力で生きている事を示された。周囲を責め、裁くのは、自分の力と思いで突き進んでいたからだった。辛いのに頑張っている自分なら、頑張らない周囲に怒りが湧く。砕かれて初めて、安堵を経験した。

兄息子は父の心がわからない。愛がわからない。距離的にはすぐそばにいたが、その心は遠く離れていた。重症なのは、弟以上に兄なのかも知れない。「子山羊1匹すらくれない」と言った兄に「わたしのものは全部お前のものだ」と絶大な愛を示されている。

すねた、ひがんだ心があるだろうか。人々は皆幸せそうなのに、自分は恵まれない。放って置かれている。しかし、主は「わたしのものは全部お前のものだよ」と言われている。
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見方一つで、幸せにも不幸にもなる。父なる神様がくり返し愛を示し慈しんで下さっても、それを素直に受けらないなら、義務でただ仕事をこなしているだけだ。愛されている、近くにいる事だけで幸せですと喜んで今日も御側の近くにおりたい。