2010年11月26日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


               
プライドは人間の高ぶり、自惚れから来る。そしてプライドは、他人のプライドと競い合う。プライドとは絶対的なものでなく、相対的なものだ。自分が持つものに決して満足せず、他人より多く持ち、他人より上である事に、優越感を感じて満足する。他人より上でなければならない。

だから常に「比較」があり、比較の上に成り立つ。相手が、自分より優位にいる事が許せない。負けとしか思えず、どうあってもライバルの上に立ちたい。対人関係の争いは、又、国家間の争いは、こんな人間のプライドに起因する。対抗心を燃やし敵意を抱く。

蛇が、アダムとエバへの誘惑に働いた事は有名だ。彼らのプライドを巧妙に狡猾にくすぐった。禁止には神の下心があり、神は、あなた方に、神のようになられるのが嫌だから、禁止していると。なぜ、神のようになったらいけないのか。自分たちだってなれる。サタンがプライドに挑んで来た結果、罪を犯してしまった。

罪の根源だ。その罪の性質が、私たちの内に今もある。自分を高くする。主は丁度その対極だ。神のあり方を捨てられた。ご自分を捨てられ、自分を主張されず、ご自分を低くされ、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。ここにプライドからの救いがある。十字架に私のプライドは釘付けにされた。そこに立って従っ
て行こう。
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初対面では互いにへりくだれても、徐々に優劣をつけ比較しはかりはじめる。主が十字架でプライドを解放して下さっている。主に助けられ、自分を保とうとする時、気づけ放棄できますように。主のみこころの態度がそこに成りますように。