2010年12月27日(月)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14


取税人とパリサイ人が、宮に来て祈った。祈りの言葉で、心の内が見えて来る。パリサイ人の意識は、ひたすら「人」に向けられるばかりであった。そこに神は無い。取税人は、人などそこに介在せず、ただ「神」だけを見上げていた。あるのは、神と自分の関係だけであり、神意識だけだ。

パリサイ人は、「神よ」と言いつつ、実は神ではなく、人に向かい、人に対する自己意識だけだ。人と自分のみだ。取税人は、神の前の自分を意識して、自らの罪を認めている。御霊に罪を示され、悔い改めを与えられる時、人が見えない。神と自分の間で、自らの罪が見えるだけだ。そして、その罪は主の血潮で、赦さ
れる。無罪放免とされる。

パリサイ人は人と比較して、自分を見る。自分の罪の基準が、人による。だから罪認識があり得ない。そして悔い改めも無い。このようにサタンは常に、人と自分を比較させる。

御言葉の光に自分を照らし出すのではなく、人との比較で、自分はどうなのかを見せる。サタンの誘惑であり、人より優るなら優越感、人より劣れば劣等感となる。真の罪認識に至る事がない。神に向かない限り、人は罪を知る事はできない。
罪が赦されるのは罪人だけだ。罪を人との比較で見ていないだろうか。
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御言葉に向かう時、自分がどれほど罪深いかがわかる。御霊の導きに従えない自分、自分の事しか考えていない自分がはっきりと示される。その中から神様!と叫ぶ祈りが出来る。誰に何を祈っているのかわからないような祈りは無意味だ。