2011年05月27日(金)

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで・・ちりと灰の中で悔い改めます」ヨブ42:5

 

        
   
ヨブに極めて厳しい試練が臨んだ。正しく生きて来たのに、何でこんな目に会うのか。理不尽さに、思いきり不満を神にぶつける。私など生まれなかった方がよかった、なぜ、こんな苦しみを受けないといけないのか。何も悪い事などしていないのに、「なぜ?」「どうして?」その答えが欲しい。

ヨブ記の最後の箇所で、ずっと沈黙を保たれていた神が、口を開かれる。が、「なぜ?」には、神は答えられなかった。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか?」と逆にヨブに次々と問いかけられる。ヨブは答えられず、黙り込んでしまう。ヨブの「なぜ?」の問いには答えられなかったが、ヨブは、
神の語りかけに納得する。

神への不平も不満も捨て去って、神の前にひれ伏す。なぜヨブは変わったのか。「今、この目であなたを見」たからだ。神は説明を与えられたのでなく、ヨブにご自身を現して下さった。何という恵みだろう。私達は辛い苦しい状況の中で、理由を論理的に説明されたとして、それで生きて行けるのだろうか。

しかし、神にまみえるならどうだろう。神を見て、私たちの霊が、神の臨在に触れるなら、どんな苦しい中でも、心は満たされて生きて行ける。神との生きた交わりの中で、平安と喜びを与えられ、神の愛を信頼して生きて行ける。
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どんな状況にあっても神を近くに覚え霊の交わりをする時、いつも喜びと力が内から湧き上がって来る。なぜ?の具体的な答えはなくても、求め尋ねて行くなら、必ず神様はご自身を現され、これが答えと教えられ、それは納得できる。