2012年04月26日(木)

「だれでも、神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」ヨハネ7:17

                
神の御声を聞いて従って行くのが、信仰生活であるが、神の御声が聞こえなくなる事がある。自分の思いで一杯な時は、強い自分の思いが、神の御声を妨げてしまう。自分の思いがあるばかりだ。又、神の御心がわかっても、神の計画よりも、自分の計画の方に心が占領されている時は、御声に従えない。

私たちは、祈りの中で、自由に自分の気持ちを、主に告げるべきだ。詩編記者は怒りも、悲しみも、苦しみも、嘆きも、何もかもを、正直な気持ちをぶつけている。又、心の願いを神に祈れと言われている。願いは神のもとへ持って行くとよい。それが神の御心と一致するなら、その願いは叶えられる。

しかし、すべての願いが叶うのではない。神はご自身の思いを持っておられるので、それが一致するとは限らない。その時は、痛いかも知れないが、自分の思いよりも遙かに高い神のみ思いがある事を受け入れて行く時だ。

主がゲッセマネの園で、「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られ、御父の御心を受け入れて行かれたように。自分の思いを捨てて、神のみ思いに従うなら、大きな祝福にあずかる。一つ一つ示される御心に、自分の計画を捨てて従う時、その時、主ご自身を知って行き主との関係が深められて行く。
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みこころを行おうとする時に、岩のように硬い自分の思いや従えない弱さを認識する。祈りながら御言葉に聞きながら明け渡すプロセスが喜びとなり祝福だ。御声を聞き分けて従って行きたい。