2012年08月27日(月)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2



ある人が、強い願いがあり、「○○をかなえてくれたら、神がおられることを信じます」との祈りをした。ところが、その事は成らず、何も起こらなかった。しかし、その事についてよく考えた時に、神がなぜこんな自分勝手な祈りに答えなければならないのか、自分が間違っていると思えた。

私たちにも、あるかも知れない。神が自分の望み通りに、祈りに答えてくれたなら、神を信じよう。そうでなければ、信じない。これは不信仰だ。御言葉だけなら、信じ難いので、自分が納得できる証拠が欲しいと。そして、このようなら、主がどんなにみわざをして下さっていても、自分の思い通りでないなら、決して受け入れる事ができないし、認めない。

主と御言葉の上に、自分を置いていることになる。高慢な思いだ。自分の思いがあるばかりで、そこでは決して主が見えない。主は、私たちが欲しいものを、手に入れるための手段では無いし、幸せになるための手段でも無い。主は、私たちの思い通りには動かれない。

そうでなく、主と御言葉の下にへりくだって、自分の思いを捨てて、主のみこころを求めて、そのお心に従って行く時に、必ず喜びが来る。主の御心に叶う願いは、すでに叶えられているからだ。自分の思いでなく、主の御心が重要だ。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」。
-------------
自分の強い思いがあればいつまで経っても生きておられる神を知ることは出来ない。御心だけが成り、それは私達にとって必ず最善のものであることを信じて祈っていこう。必ず主が強い思いを砕いて御心に応答できる者へとつくり変えて行って下さる。