2013年01月27日(日)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改 めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント 7:10



「後悔」と「悔い改め」は違うと言われている。「後悔」は自分の
失敗を悔やむのだが、罪を犯したことの「結果」が悪かった事を悔
やむばかりで、それだけだ。悪い結果を悲しむのは、世の悲しみだ。
そこに罪を捨てようとする気はない。それは死をもたらす。

主に向く事がなく、自分を中心に堂々巡りで、何の変化も無い。だ
から、同じ失敗を繰り返してしまう。しかし、「悔い改め」は、方
向変換だ。どこまでも自分軸に向かっている思いを、主に向け変え
ること、向きを変えることだ。

神のみこころに添った悲しみは、自分に向いていた目を、主に向け、
十字架を見上げる。そのため、悔い改めが与えられ、全き赦しが与
えられる。新たにされる。

イスカリオテのユダは、主を裏切ってしまった。主を引き渡した後、
自分のした事に恐ろしくなり、自責の念で苦しんだ。祭司長、長老
の所へ行き、銀貨30枚を返して「私は罪を犯した。罪のない人の
血を売ったりして」と言った。しかし「私たちの知ったことか。自
分で始末することだ。」と言われ、首をつった。自分で始末した。

世の悲しみは死をもたらす。ユダは主のもとへ行くべきであった。
方向変換し、主を見上げるなら、悔い改めることができた。自分に
向いている目を、主に向けよう。ペテロもダビデも、大きな罪を犯
したが、自らの罪を認めて、救いに至る悔い改めが与えられた。

・・・・・・・・・・・・
どんな時も、主のもとへ行き、主に頼ろう。罪を犯してしまった時、
自分で何とかしよとせずに、主のもとへ行こう。悔い改めが与えら
れ、全き赦しが与えられる。そして立ち上がらせて下さる。どんな
時にも主がおられる。