2015年01月27日(火) 「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20
弟息子は、父から財産をもらい、遠国へ行き、自分の思い通りに、 好きなように、生きたかった。誰にも邪魔されず、自分のしたい事 をする。それこそが自由であり、解放であり、喜びだと思っていた。 当初は、大勢の人々が群がって来て、人に囲まれ、快楽に酔った。 しかし彼らは、彼のお金や物目当てであった。だが湯水のごとく使 えばいつかは底をつく。とうとうその日がやって来た。遊興に使い 果たし、同時に飢饉がやって来た。金の切れ目が縁の切れ目とばか り、人々は皆すぐに彼から去った。食べる事にもこと欠き、このま までは餓死する。豚の番の仕事をし、その時、豚のえさを食べたい と思うほど、飢えていた。 しかしそれすらもらえなかった。助けて気遣ってくれる人は誰もい ない。そのどん底で我に返った。雇い人にまで、豊かにパンを与え る父。とにかく帰ればパンにありつける。飢え死には免れる。そん な動機で父のもとに帰る決心をする。父への応対のシュミレーショ ンもする。しかし息子が家を出て以来、帰りを待ち続けていた父は、 父の方から走り寄り、息子を抱きしめた。 父の心を踏みにじり、自分勝手をし、ボロボロになって帰って来た 息子にかかわらず。その父の愛に触れた時に、初めて心底からの悔 い改めが起きた。真に父のもとに帰り、父の愛に憩い、父の愛を喜 び楽しむ者と変えられた。父の愛のもとで生きる者とされた。私た ちがどうなろうと、主の愛は決して変わらない。 ------------ 何か益になるから人は近寄ってくるが、主は無益なままの子と呼ば れる資格のない者を愛しつつ待っていてくださる。素直に帰れる御 父が、いつも傍におられるから悔い改めてまた進んでいける。