2015年05月27日(水)

「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6





主は、ダビデが献げたいけにえも、穀物のささげ物もお喜びにはな
らなかった。 いけにえも穀物のささげ物も、主は喜ばれず、ダビ
デの耳を開いて下さったとある。「耳を開く」とは、心の耳を開く
ということであり、「穴を開ける、掘る」と言う意味がある。

ダビデの心の耳が開かれたということは、耳はあるが、ふさがって
いて、穴を開けられたことになる。私たちはどうだろう。主の御声
が、心の耳に聞こえているだろうか。それとも心は肉の思い、自分
の思いでいっぱいだろうか。そのため、単に物理的に聞こえている
だけだろうか。それとも、御言葉の頭の理解だろうか。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他
のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえ
にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」。又、自分に
都合の良い言葉だけを聞いて、あとは耳を閉じているだろうか。
少しでも都合の悪い、自我に触れて来る言葉には、即、心を閉じて
しまう。意識せずにしているかも知れない。

もし、こういう状態であって、耳がふさがっているなら、何も心に
聞こえてこない。主にありのまま、御声が聞こえません、聞く耳が
ありませんと向き合おう。主こそが、耳を開いて下さるお方だ。正
直に自分の状態を認めて、主に向かう時、必ず答えて下さり、耳を
開いて下さる。 
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主の御心、御言葉が素直に心に入らない時は、祈りながらもあれこ
れと思い廻らす。平安がないのは苦悩の状態ではなく、御声が素直
に聞けていないからではないか。主は開いてくださる。