2016年04月26日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2



種まきのたとえで、種は御言葉で、土地は私たちの心だ。種が机の
上に置かれても、決して芽吹くことはない。幾ら祈っても無理だ。
種が芽吹くためには、耕された土地が必要だ。種と土地が一つにな
る時に、種は根ざし、芽吹き、実になって行く。道ばたに落ちた種
は、鳥が来て食べてしまった。

道ばたは固いので、種をはじき返してしまう。するとサタンが来て、
種を持ち去ってしまう。私たちも礼拝や学びやデボーションで御言
葉を聞く時、どうだろう。御言葉があっても、土地である聞く態度
が問題だ。心が固いと御言葉が心に入らない。礼拝で、学びで、自
分で聖書を読み、御言葉を聞く時に、

「それは無理、私には無理」「そんな事、神様は本当にできるのだ
ろうか」「そんな事言ってたら、世の中でやって行けない」「本当
に?」「ああ、私には出来そうもない」との思いが湧いて来ないだ
ろうか。その思いの方を選択して行く時、御言葉を捨てている事に
なる。結局は、御言葉を聞かなかった事と同じになる。自分として
は聞いているつもりなので、欺かれてしまう。

御言葉が心に入らない限り、自分が変わる事も、成長も無くなって
しまう。自分がどういう態度で聞いているかは大変重要だ。御言葉
の上に立って、都合の良い御言葉を取捨選択しているだろうか。神
の下に、へりくだって御言葉を聞く時に、御言葉が心に入り、自分
が変えられて行く。
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御言葉を真っ直ぐに聞いているのに、受け入る時に無意識に選り分
けてしまう。気をつけよう、大胆に祈れなくなる。想像をはるかに
超えた素晴らしい御神の栄光を遮ってしまわないよう。