2016年06月26日(日) 「・・私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保 ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハ ネ1:8
「・・私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保 ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハ ネ1:8
イスラエル全軍が命がけで戦っている最中に、ダビデ王はエルサレ ムにいて、夕暮れに床から起き出すような生活をしていた。すきと 油断がある時に、サタンはつけ込んで来る。バテシバを見た時に、 サタンの誘惑がダビデに臨んだ。ダビデはとっさに主を呼び、助け を求め、主の力により誘惑を拒むべきだった。しかし、欲に負けて バテシバと姦淫の罪を犯してしまった。 そこで主を仰ぎ、悔い改めるべきであった。しかしそうしなかった 時に、罪に罪を重ねてしまった。バテシバの夫である忠実な部下ウ リヤを殺害してしまった。ずっと命をつけ狙われたサウルを、機会 があったにかかわらず、決して殺さなかったダビデが、何の落ち度 も無い部下を殺してしまった。王であり、誰も何も言えない。人前 に隠しおおせたと思ったが、一部始終を神は見ておられた。 「思い違いをしてはいけない。神は侮られるような方ではない」人 は蒔いた種を刈り取る。預言者ナタンを通して、ダビデの罪はあば かれた。ダビデの素晴らしいところは、いっさい言い訳、弁解をし なかった。バテシバのせいにしなかった。「私は主に対して罪を犯 した」と自らの罪を率直に認めた。 民や部下の手前、王が罪を認めるとは容易でない。しかし、その瞬 間、主の赦しが臨んだ。「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さ った」。この時、ダビデに心底の平安と安堵が戻った。罪を認める ことが、光の中を歩むことだ。そうするならどんな時にも、赦しが ある。 ・・・・・・・・・・・・・ 罪を認めない間は「御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の 骨髄は、夏のひでりでかわききった」とあり、苦悶の中だった。悔 い改めによる、主の平安は何にも代えられない。豊かな赦しを受け て、この平安の中を生きて行けるとは何と幸いだろう。