2016年10月27日(木)

「へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエル の聖なる方によって楽しむ」イザヤ29:19


へりくだりが良いこと、しんがりになる事が良いこと、皆に仕える
ことが良いこと・・そのような事を聞くと、へりくだらなくてはと、
そのようにしようとする。しかし、その心に、へりくだっている自
分は素晴らしい、又、偉いと言われるために、物腰を低くしようと
してしまう。

周囲に賞賛され、けんそんな人と言われたいがために、そのように
する。外側を作り、見えるところに生きてしまう。決して上座には
行かず、常に下座でうろうろする。「いえいえ、私などは・・」と、
「つまらない者です」と、後ろに退き、一見けんそんな言い回しを
する。人々が集まる中では、靴やスリッパをそろえ、あれやこれや
と世話をする。

しかし心の中では、自分が一番けんそんで、皆に仕える者だと、し
んがりの者だと、誇っていたならどうだろう。そのけんそんは、高
慢の裏返しになってしまう。又、この世の宗教では、偉くなって行
くための階級があり、今は下働きをして仕えるが、階級が上がる度
に、下の者から仕えられるようになる。それを目指して、仕える。
いつかは自分も偉くなると。

しかし主が言っておられるのは、そういう事ではない。自分の力で
へりくだる事は出来ない。単に腰を低くするだけだ。御霊によって
与えられるものだ。すでに古い人が、主と共に十字架につけられた
事を信じ、自分を捨てて行く事、砕かれる事によって、与えられる
へりくだりだ。砕かれて行く時に、自らの貧しさを知り、主を喜ぶ
者とされて行く。

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自分で、けんそんになろうとしても、肉でやろうとするなら、高ぶ
りになってしまう。自分では出来ない。主を仰ぎ、主に一歩一歩と
従って行く時に、主がけんそんな者にして下さる。主が砕き、練り、
きよめて行って下さる。主の御手のわざだ。