2017年02月24日(金)

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主のようなものです」マタイ20:1



ペテロが「何もかも捨てて従って来た。ついては何がいただけるか」
と言った事に、主が語られた箇所だ。早朝6時から3時間おきに、
次々と労務者が雇われ、最後は5時に雇われる。もう片づけに入る
頃だ。仕事が終わると「あとの者が先に」5時の者から順次賃金が
払われ、早朝の者も全員が1デナリだった。

が、彼らの反応は怒りだった。自分たちは暑さと労苦を辛抱したの
にと。契約の1デナリではなく、5時の者と同額なのが納得行かな
い。しかし早朝の者は1日1デナリの契約であり、主人は不当な事
はしていない。又、5時の者は怠けていたのでなく、働きたいが雇
ってもらえない。主人の心は5時の者にも同じだけ上げたかった。

労使の雇用関係である早朝の者は、この主人の恵み深さがわからな
い。これは「天の御国は」と最初にあり、神の国の事を言っている。
この世で、これが起きるなら賃金体系が混乱してしまう。この世の
価値観では量れない世界だ。主人の心はあわれみと慈しみに満ちて
いる。

当時の1日の給料が1デナリだ。家族も待っているであろう、その
1日分に必要な糧を、5時の者にも与えたかった。この世は利潤追
求だが、主人は余りにも豊かで、与えたいばかりだ。神の国は恵み
が支配する世界だ。この世とは全く異なる、あわれみと慈しみの世
界だ。

そして、ペテロが、何もかも捨てて従って来る事ができたのも、実
は主の恵みのゆえだ。自分の力ではなく、恵みがあったからこそ、
そう出来た。誰も自分を誇ることは出来ない。「あとの者が先に」
恵みの世界は、神への感謝しかない。
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救いも日々の悔い改めも、喜びも感謝も自分の力では出来てはいな
い。五時からの者は私だ。主は早朝の者と同じあわれみを注いでく
ださっている。ただ主の恵みによって生きている。