2017年03月27日(月)

「あなたがたが、わたしのことばにとどまるなら・・ほんとうにわたしの弟子です。そして・・真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32


自由とは、何でもかんでも自分のしたい事をする事ではない。それ
は放縦だ。人には肉の性質があり、肉の思うがままに、好き勝手に
歩んでしまう。その瞬間の快楽はあるが、心は必ず虚しい。ある人
々は、自分の気持ちに正直に生きるのだと、不倫を肯定するが、そ
れは正直なのでなく、わがままであり、罪だ。

魚は水の中で初めて、自由に、生き生きと生活できる。私達は陸で
自由なように、自由には秩序がある。魚は水の中が不自由と感じる
だろうか。秩序の中の拘束こそが自由なのだ。オーケストラで演奏
する時、皆が譜面通りに演奏する。その時、自由に素晴らしい演奏
ができる。各自が好きなように演奏するなら、混乱で、雑音だ。

スポーツもルールを無視して、皆が好き勝手にしたらどうだろう。
プレーが成り立たない。しばしば生まれつきの思いは、すべての拘
束から解き放たれる事が自由だと勘違いする。そうではなく、拘束
を受け入れて、従うこと、御霊の導きに従うところに、真の自由が
ある。真の平安と喜びを経験し味わう。

私たちにはくびきが与えられている。くびきから逃れるのでなく、
くびきをしっかり負う事が解放され、自由の道だ。御心から逃げる
と、一瞬の解放感はあるが、すぐに平安を無くし惨めになる。一見、
嫌で負いたくないが、しかし負うと、喜びと平安が来る。今、示さ
れる事があるなら、受け入れて従おう。真の自由を味わおう。
----------------
主の御心に従うことが不自由に思えることがある。でも罪と放縦に
コントロールされていてどうして自由と言えるだろう。主にとどま
ることが不自由に思える時こそ弱さを覚えて主に助け祈ろう。