2017年05月27日(土) 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」 マタイ5:3
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」 マタイ5:3
私たちは、自分は心貧しい事は貧しいが、そこまで貧しくないと思 いたい。「貧しい」という言葉自体が良い響きでなく、どちらかと 言うと悪い印象なので、何かひっかかり、認めたくない。しかし、 内側をよく探るとどうだろう。突き詰めるなら、心底、他人に同情 する事など出来るのだろうか。自分の事だけで一杯だ。歯痛で泣き 叫んでいる時に、人の事など考えられないように。 又、人の喜びを、喜ぶ事ができない。ある人は入試に落ちて、合格 した友人が羨ましく妬ましくて、どうにもならなかったと。又、あ る人は入院中に、同じ病の人が退院して行くのが羨ましくてならず、 自分は退院のめどすら立たず、祝福などできなかったと。 幸せな人を見ると、なかなか共に喜べない。自分はと、自己憐憫に 陥ってしまう。他人の事に真に関われない冷淡さがある。 普段考える事なく、突き詰める事もなく、あいまいに通過している。 自分は良い人であり、愛が無いなどと認めたくない。そんなに酷い 人間ではないと思いたい。だから、あえて見ないように、無意識に そうしているので、気づく事も無い。しかし、霊の成長は、必ず現 状を見せられ、「認める」事から始まる。 冷淡で愛が無い、嫉妬深い、プライドの高い自分、破れ果てた真の 自分の姿を見せられ、認める時に、御霊によって、キリストのかた ちへと変えられて行く。 自分がいかに貧しく惨めかを知る時に、新たに主に出会い、御霊の 喜びを持つ者にされて行く。信仰生活はその歴史だ。低い所に水が 流れるごとく、恵みは流れ、無い所に、神は溢れるまでに満たし て下さる。自らの貧しさを知る者は、真に幸いだ。溢れる祝福にあ ずかる。 ・・・・・・・・・・・ 色々な事が起こり、いかに自分が貧しいかを見せられる。だが何も 無ければ、自分が貧しいと知る事もない。本当の自分を見せられる 事は、主に在っては恵みであり、大きな祝福だ。そこでこそ十字架 の意味を知り、愛されている事を体験して行く。