2017年11月26日(日)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26



群衆が、主を追い回していたが、それは、主ご自身を求めではなか
った。主がされる奇跡を求めて、「パンを食べて満腹した」通りに、
パンを求めて、主の後について行ったのであった。自分の願望が、
満たされたいがためだった。私たちの信仰が、自分を軸に置くなら、
自分の願いや欲望が満たされている間は、つき従う。

つまり、自分の思いと合致している間は良いが、思い通りにならな
くなった途端、離れ去る事になる。自分の願いが叶わないなら、失
望しつまずく。ついて行く意味が無いからだ。群衆がそうであり、
ユダがそうだった。ユダは、主がローマ帝国を覆し、主の王国を築
くと思い込んでいた。それが十字架へと向かわれ、自分の思いと違
った時に、主を捨てた。

私たちは、何のために、主に従っているのだろう。パンのためだろ
うか。それなら、自分に都合が悪くなった途端、必ず従うことをや
める。軸が自分なので、自分に損か得かで動く。主は信頼できる信
仰を探しておられ、信頼できる信仰に、ご自分を任せようとしてお
られる。

つまり、主を自分の利得のために利用するのでなく、主がまことの
神であるゆえに、従って行こうとしている人々に、ご自身を現され
る。その人は、どんなに自分に損になろうと、試練の中も、苦しい
中も必ず主に従って行く。そしてそれは、そうするようにと、主が
捕らえて下さったからだ。

・・・・・・・・・・・・・
古い性質は、自分の都合優先だ。損得で動き、メリットがあるから
信仰する。しかし新しい性質は、それを悲しみ、主に従いたいと思
う。自分では出来ないので、自分を委ねて、明け渡して行く時に、
御霊の助けてを経験して行く。