2020年05月27日(水)

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてださい」ルカ22:42



信仰生活で、主の御心と自分の思いが、相反する事がある。時に経
験する。御心が何となくわかるのだが、自分はどうしてもその方向
へ行きたくない。又、自分はこの事がしたいのだが、どうしても道
が開かれない。これは御心ではないのかも知れない。だが自分はど
うしてもしたい。時にこのような状況に陥る。非常な葛藤が生じる。
こんな時には、どうすればよいのか。

まず、よくよく祈ることが大切で、必要だ。主は十字架にかかる前
に、ゲッセマネの祈りで、ご自身の気持ちを率直に祈られた。「で
きるなら、この杯を過ぎ去らせて欲しい」十字架を回避させて欲し
いと。弟子たちに、これから十字架にかかり・・と言い続けて来ら
れた十字架だ。どんな御心にも、黙って、雄々しく勇敢に従って行
くのが、霊的で、立派な信仰者なのではないのか。そんな思いが無
いだろうか。

しかし、主は弟子たちにゲッセマネで、十字架を前に、悲しみの余
り死ぬほどだと言われ、一緒にいて欲しいと弱さをあるがまま出さ
れた。繕わずに、隠さずに、ありのまま御父に祈られている。これ
が真の祈りだと見せられる。そして祈りの中で、祈りつつ御父の御
心に、ご自身を明け渡して行かれた。「あなたの御心のように」と。

私たちの肉が求めるのは、どこまでも自分の思いを遂げる事だろう
か。「自分の心が成るように」と。そこに「自分を捨てる」「自分
に死ぬ」苦しい戦いがある。だが主はその苦しみも、戦いもよく理
解し、わかって下さっている。ありのままを主に祈ろう。祈りの中
で、祈りが導かれて行く。そして心も導かれ、御心へと、手を取っ
て導いて行って下さる。
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強い思いがあれば、それだけ御前に祈りが深くなっていく。気づく
と主にすっかり明け渡せているのは、主の導きだ。あれを、これを
と自分の願いをうちあけた後は、主の御声を聴こう。