2021年09月26日(日)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71


信仰人生に、様々な問題が起きる。問題や悩みは、誰しも望まない
し、嫌なものだ。できるだけ、痛い目には会いたくない。できれば、
避けて通りたいし、出来る限り平穏無事であって欲しい。平穏な
日々が、私たちの心からの願いだ。しかし御言葉はそう言わない。
正反対のことを言う。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、
あなたのことばを守ります」と。叉、「苦しみに会ったことは、私
にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びまし
た」と。普通、苦しみに会うと、過ちを犯すふうに思う。だから平
穏でいたい。

しかし逆で、苦しみに会う前は、過ちを犯したと言う。つまり、苦
しみを通ったからこそ、過ちから守られ、御言葉に従い、御言葉を
守る者とされいるのだと。そして苦しみに会ったことが幸せだった
と言っている。私たちは苦しみに会うことは、不幸せだと思う。苦
しみ=不幸だ。しかし「信仰人生で一番主に近かった時は?」との
問いに、皆が、試練の時だったと答える。

あんなに主に近い時は無かったと。これは苦しみにより、主に拠り
すがる者とされる。真剣に、本気で、主に向かう時とされ、御心を
問い、自らの姿も照らされる。普段、順境の時には、決して知るこ
とのない自分の不信仰や、エゴに気づかされる。

悔い改めて、新たにされる。何よりも、主との交わりが深められて
行き、成長が与えられる。これこそが一番の幸せだ。

・・・・・・・・・・・・
平穏無事、悩み問題の無い事を望んでしまうが、しかし主を知って
いるお陰で、全く別の価値観、見方ができることが感謝だ。「この
問題は乗り越えられる」「脱出の道がある」「この悩みを通して主
を新たに知れる」と。そしてそのように成されて行く。