2023年03月27日(月) 「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すな わち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによるこ とです。」エペソ1:7
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すな わち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによるこ とです。」エペソ1:7
主の十字架は、罪の赦しの十字架だった。祭司長や律法学者たち は、妬みにより、主を十字架につけて行った。彼らから、たきつけ られ、人々は群集心理でとどまる事なく、バラバでなくキリストを 十字架につけるよう、総督ピラトに要求した。ピラトは、人々の証 言も一致せず、主に罪が無いことがわかっていたのに、優柔不断 で、みすみす十字架に送った。保身のためだった。 彼らは自分が何をしているのか、知らなかったわけでなく、狡猾な やり口で、主を抹殺しようとした事をわかっていたろう。主を殺し てしまいたかった。だが真の意味では、彼らは自分たちが、どんな に空恐ろしい事をしているのか知らなかった。神の子を殺害しよう としていたのだから。そんな彼らのために、主は十字架上で、赦し を祈られた。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で わからないのです」と。ある人が、言葉で人を傷つけてしまった。 悪気は無かったと言い訳したが、自分の心は知っていた。相手が嫌 いだったので、相手を傷つけたくてそうした事を。自分の罪だっ た。私たちも、数知れない罪を犯して来た。 陰険、狡猾な罪、恥ずかしい罪・・すべて主はご存じで、それを赦す ための十字架だ。自分でも気づいていない、罪の恐ろしさがわから ない罪。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」 と。御霊により、初めて罪に気づける。罪が赦されるとはどんなに 感謝な事だろう。今一度、覚えよう。 ------------ 大きな罪には罪責感があっても、嫌いな人は心で裁いて無視して通 り過ぎる。この価値観で生きてきた。今もなおすぐに迷い、何をす るかわからない罪人だ。日々主の十字架の恵みを覚えて歩みたい。